昭和41年02月02日 朝の御理解



 その人の顔かたちが違うように、信心のタイプと言うのも、百人百様である、同じ金光大神の信心を頂き、金光大神の教えられた教えを頂いておっても、その頂き方によってそのおかげは、また千差万別なのです。お互いの個性と言うものが、そこに神様のお骨折りも感じる、また、神様の御教導の妙と言うか、そげなんものを、お取次ぎさせて頂く私がいつも感じる訳でございますけれども。
 まともに信心の道を分からせて頂こうと、本気でその教えに取り組んで、自分の間違っておることに気付き、そこんところを、本気で改まらせてもろうて行こうと願い、それを日にち生活の上に、家業の上に現していこうと勤めて行く人、そう言う生き方の人が最高だと思うんですね、けれども、そう言う事に案外こう無頓着で、言うて聞かせて言うて聞かせても、教えられても、教えられても分かっておる、一つも行じないと言うやはりタイプの人、そう言う人の。
 いわゆる、神様は痛い思いさせてでも、分からせようとする働きがあるですね。かというと、非常にですね。お調子にさえのせれば、それこそげすの木でん昇るちうごたっとがある、お調子もん、ね、そしてそれを、あのどういう一つのタイプと言うものがです、まぁ様々です、もう本当に百人百様です、そして、その神様の思いと言うか、信心の味と言うか、信味というか、そういうものを味わせて下さる、そういうものを体得させて下さる。ですからそう言う場合に、なら一番はじめに申しました。
 もう真面目に教えに取り組んで、真面目な生き方です、言うて聞かせりゃ分かる、そしてそれを行にも現す、わざわざ、その調子にのせんでも、一つのその信心が進んで、進められて行くと、それも色々ありますけれども、私は信心の本当の味わいというものを味わうという事においてはどう言うタイプでも同じ、ですからお互いがまあどういう系統の私共であるかという事を一つ気付かせて頂いて、それをこの、改めて行くという訳にもなかなか参りませんですね。
 例えば、秋永先生のようなタイプの人に久保山先生のようなタイプに改まれと言うても、このいしのようなかたに秋永先生のような風になれというても、ね、( ? )タイプの方にその、双方の真似をせろと言うても、どれがどうといいませんです、けれども三人三様、やはり神様の味わいというものに、触れて行きよるから、信心が続けられて行きよるのである、それはもうおかげという事を別にして、信心のその味わいと言うものに触れて行きよるから、信心を続けておるわけなんですよね。
 けれども、どう言うタイプの人でもここんところの味わい、ここんところの信心の妙と言うものを、これは同じに頂いて行かなければならない、そういう一つの神様の働きの現れというものを、知っておかなければならないという事の中に、ちぐはぐの妙という事がある、ちぐはぐの妙というてもあれなんでしょうけれども、ね、右と願えば左、左と願えば右、ね、こんなのがちぐはぐと申します、ね、これはね、どう言うタイプの人の上にでも必ずあるという事です、ね。
 どう言うタイプの人の上にでも、これは必ずあるんです、信心が進められて行けばいくほど、そこんところを感じ、又は通らせてもらうです。私の頂いておる御教えの中にもあります、氏子の願いが成就せん時には、神の願いが成就しておる時と仰る、そういう素晴らしい事をなるほどだと、私共が合点させてもらう信心なんです、ね、私の願いが成就せんと言う事は、ね、いわば、天地の親神様が私にかけてござる願い、ね。
 私共がねごうておることではなくてです、天地の親神様がねごうてござる願いのほうが成就して行きよる時だと、願うても願うても、願いと言うものは、一つも成就しないびくともせん、けれども、神様の願いは着々として進められておる、丁度言うならば、こんな御簾のようなもの、御簾を作って行く時には、あのつつろこと言うのは右左なって行きよるずうっと、ね、一緒になっていかんでしょう。
]むしろそこに、タイミングよく、かちっと一緒に、つつろこと、つつろこがあうときには、この御簾が、作り上げられていきよる時には、もうストップした時なんです、ね、もう右左になっていくずうっと、けれども、御簾そのままはすうっと、こう編上げられていきよる時、ね、そこんところが分からせてもらうと、まぁ一段と、信心の味わいと、これは本当に神様が、大坪総一郎でなからなければ、でけんと言うことが、おありになるに違いはない、ね、
 それは私に対する、神様の願いが、期待が大きければ大きいだけ、神様ここを、通らせてくださるんだと、言う実感が湧いてくる時です。喜びの中に、そのちぐはぐの時間を有り難くもたせて頂く事ができる、自分の願いが、成就せん時は、神様の願いが成就しておる時だというその実感、ここんところをです、どう言うタイプの人でも、一つ分からせてもらい、辿らせてもろうて、ここんところの体験をですね、体得しなければならんとこう思うんです。
 神様にお願いをして、お願い通りにこうやって、おかげを頂いて行くと、という事は有り難い事でもあるけれども、それは決して、本当のおかげに向かってのおかげではないと、ね、そう言うところがあるかと思うと、また反面にはちぐはぐちぐはぐになって行く、右を左になって行く、ね、丁度それはつづみにかけられておる、あのちどりがけの紐のようなもの、ね、ちどりがけになって行く、反対にかけの字になって行く、ね。
 それを最後にぎゅっと、中心を締め上げられた時に、そのつづみの音色と言うのが良い音色を出してくるように、私共の信心の音色と言うものがです、ここに統一され、人間それぞれの個性がある、タイプがある、ね、けれどもやはりここんところだけは同じ、ここんところに、結局は一つに絞り上げられてくる、絞り上げられたそこに、本当の良い音色というものがある、ね、その音色の味わいだけは同じもの。
 金光大神もやはりこういう、音色を感じられたのであろうかと、言う様なものを自分の心の中に感じる事ができる、どうぞ皆さん、ちぐはぐの妙を分からせてもらえれる、信心になったら有り難い、ね、本当に私の願いが成就していない時には、神の願いが成就しておる時だと、これはもう不信心でですね。信心の稽古も、そのお参りもお願いも修行もせずしてです、ね。
 それが右左になって行くのとは、ちょっと意味が違う、それでは決してちぐはぐの妙と言った様なものは、感じられる筈がない。一生懸命、その人なりに、一生懸命のお縋りをさせて頂きながら稽古をさせて頂きながら、私はその人のちぐはぐの妙、ちぐはぐを感ずる時に、必ずちぐはぐの妙と言うものが感じられる、許される訳なんです。その先に私はどう言うタイプの人でも、これは同じ信心の喜びというものを頂かせてもらう。
 なるほど、私共の願い叶うていない時に、神様の願い叶うておっただなと、そこへ私は、こう言う徳を受けた、こう言う力を受けた、あの時には、あのちぐはぐの時であったなと、というものを、私は体験させてもらう、おかげを頂かなければならんと思うですね。どうぞ一つちぐはぐの妙、その味わいを、分からせて頂く信心に、ならなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。